問題行動トリオ 佐久間新さんの父であり、心理学者の佐久間徹さんに「問題行動」についてお話を伺うことになった。新さんからの提案である。Zoom越しでも、じんじんと熱の伝わる3時間。するどい“問題発言”(!?)に、問題行動トリオも勇気付けられた徹さんの言葉!ぜひご覧ください。
ゲスト:佐久間徹さん(心理学者/フリーオペラント法による不適応行動に対処する)
1、徹さん、片っぱしから子どもをくすぐる
野村:新さんから聞いていたんですが、かつて、徹さんが会う子ども、会う子どもみんなをくすぐっていたっていうのは、本当ですか?なかなかな“問題行動”だなあってずっと興味深く感じていました。その辺りのことを、今回のインタビューでぜひ聞いてみたかったんです。
徹さん:私は行動療法について大学で学び、主に、自閉症児の行動療法を臨床的に研究していました。大学に入る前は精神分析に興味があって心理学に専攻を決めたんですが、在学中に行動療法を学び、そちらに舵を切りました。研究者として独り立ちしたばかりの頃は自分の研究室がなかったので、大学外の臨床的の現場へ出向いて活動していたんです。
“くすぐり”との出会いは、そんな頃でした。いつものように自閉症児を預かって、その子どもをおんぶして公園に連れて行きました。公園で、その子を背中から下ろそうとした時です。その子が「きゃっきゃっ」と笑ったんですね。自閉症児というのは、他者への執着がなくコミュニケーションが難しいという傾向があり、人に笑いかける、ということがなかなかありません。ですので、笑い声に「あれ?どうしたんだろう?」と思いました。もう一度やってみようと背中におぶって、再び下ろしてみました。何度か繰り返してみると、どうやら背中から降りる時に当たった場所がくすぐったかったんだとわかりました。今度は、くすぐってみました。すると、やはり笑い声をあげて喜ぶ。それから10年もの間、自閉症の子どもだけでなく、子どもという子どもを何百人とくすぐり続けました。これは、大発見だ!と思ったんです。
野村:「くすぐる」は、何かのスイッチになるんですね。
徹さん:くすぐるって言えばね、動物を対象にした、くすぐったさについての研究もあるんですよ。京大でチンパンジーの仕事をしている人は、チンパンジーは、くすぐると笑うんだと言っていましたし、馬も笑うんだそうです。脳波関係の仕事でドイツに留学している人から、実験動物である白ネズミ(ラット)が、くすぐると笑うという研究している研究者を紹介されて、手紙でのやり取りをしたこともあります。
しかし、「くすぐる」という感覚は測定が難しいんですね。感覚のなかでも、痛い、寒いなどはある程度測定が可能だが、「くすぐる」という感覚には「物差し」がない。ラットは、飼育室でラットの皮膚をこすったら興奮し、慣れてくると手の方へラットから近づいてくるらしい。ラットは「くすぐったい」と言わないし、表情が変わったり体をよじったりするわけでもないけれど、皮膚をこすると、その途端脳波に興奮が見られ、体を寄せてくるんだそうです。独特の興奮の波が見られる。「くすぐったい」という感覚を直接捕まえるには「脳波」が有力であると思っています。
「くすぐったさ」を感じるメカニズムは面白いから、ぜひ生理学的な研究をもっとしてほしいと伝えました(笑)。まだまだ未調査の領域ですので、今後の研究に期待を寄せています。
それにしても、くすぐるというのは本当に不思議な感覚で、指でくすぐるだけでなく、接触せず離れて指で「こちょこちょ」という仕草を見せるだけでも笑ってしまう。しかし、親しくない人がやっても、くすぐったいという感覚はない。単に皮膚感覚だけでなく、人間関係の感覚を表しているようにも感じます。
佐久間(新):くすぐりは、紙一重なスイッチですね、楽しいスイッチにもなれば、逆に振れ、拒絶されることもあるかもしれないですよね。
徹さん:学齢期という境界もありますね。くすぐられて楽しく笑える年齢と、嫌だという気持ちになる年頃と、きっとみなさんにも経験があるのではないでしょうか。
佐久間(新):子どもの頃、たまに週末に父(徹さん)が自閉症児と会う大学の研究室に連れて行かれたんですが、床に転げ回ってこどもをくすぐっている父を見て、気恥ずかしくもあり、なにかきっと大切なことをしてるんだろうと思ってました。その時のことは鮮明に覚えています(笑)
砂連尾:新さんは、今、けっこう徹さんと近いことをしていますよね(笑)。徹さん、なぜ、自閉症児とのコミュニケーションの中で、くすぐり続けるということを選択したのでしょう?
徹さん:ただ、笑わせたかったわけではないんですよ。自閉症の子どもたちに言葉を言わせたいという命題があったのです。くすぐるという行為によって、自閉症の子どもたちが、他人に対して自発的に近づきたいという気持ちをかき立てることになるんではないか、と仮説を立てたんですね。
自閉症児の特徴として、回避行動(人を避けようとする行為)があります。コミュニケーションを取るためには、訓練して回避を「改善」していく方法ではなく、子ども自身が「自発的に」人に近づきたいという気持ちになる必要があるのです。それには、警戒心を取り除くことが必要です。くすぐると、つい笑ってしまうし、もっとくすぐって欲しくなるでしょう。そうすると、回避行動をしていた子どもが、人に近づいてくるんですね。くすぐりによって、短い時間で「ラポール」(もともと臨床心理学の言葉で、セラピストとクライアントが信頼し、自由に交流できる関係が成立している状態を指す)が出来上がる、と考えました。
自閉症の子に何かを教えるのは極端に難しいんですが、言葉の遅れを取り戻すために、絵カードを見せて、「これはなあんだ?」と、モノや行動の名前を一つずつ教えていくという方法があります。しかし、名前を覚えても、生活の中でその名前を使うことにはなかなか繋がっていかなかったんですね。たとえば、お腹がすいた子どもが、「お腹が空いた」と言葉で表現する前に、冷蔵庫を開けにいってしまう、というようなことです。
そこで、子どもが声を出したらくすぐる、というようにしてみました。声を出すと、くすぐる、ということを繰り返して関係性を作っていく。ごほうびのようにくすぐり続けていると、子どもたちは、たくさん声を出すようになっていき、もっとくすぐってほしいと言ってくるようになりました。その姿を見ていて、“モチベーション”ということに興味がつながっていきました。
2、モチベーションを掻き立てる教育機関を考える
徹さん:「寺子屋」ってご存知でしょう?江戸時代の教育機関であった寺子屋について、お話ししたいんです。
寺子屋では、50−100人を1人の教師が教えていた。ただし、個人指導で一斉講義ではない。寺子屋で教えるのは、読み書きそろばんというごくごく基本的なもので、試験もない。そもそも、親の職業によって教えるべき内容はバラバラで、先生は、100人もの生徒に対し、読み書きができる母親たちを上手に使って子ども達の学習を進めていくんです。寺子屋の教科書は出版社が作っていて、一人一人の個性的な対応ができるようになっているなど、興味深いものです。
江戸時代の寺子屋は、現代の人が見れば、学級崩壊と見まごう環境だったようで、勉強に関係ない遊びをしている子どももいたらしい。それでも、2−3年で読み書きはかなりなレベルに到達していたようです。
今の学校制度は、明治22年に海外からの受け売りによって小学校のシステムが形作られました。庶民もみな新聞が読めるように識字率100%を目指した小学校だったので、一斉授業を行い、ついてこられない人は落第させる。それが今、学校の行き詰まりになっている。150年も同じ内容でずっと続いているんだから、当然ですよね。
現代の学校制度には、大きな間違いがあります。それは、「知識の伝達」を主目的としているという点です。寺子屋の例を見て気付かされるのは、字が読めて、計算ができたら、あとは本から知識や理解力を高めていけるということではないでしょうか。
明治時代から150年も経つと、当然ながら学校の役割も変わります。現代は、「知識への積極的な獲得欲」を高めるという点に絞ってもいいのではないでしょうか。人は、知識を獲得する力を得れば、そこからは自分の欲求に従ってそれぞれで勉強することができます。現代は、いろんな情報に触れられる時代なのだから、学校が、知識や知的能力を育てる機関であるという役割を手放すべきです。
私の経験に触れますと、中学高校と英語が大の苦手でした。高校時代の私は、精神分析に興味を持ち、フロイトに手を出したんですが、エロ本よりもエロティックで、しかもアカデミックだったフロイトにまんまとのめり込み、日本語の精神分析の本を読みきってしまったんですね。大学に進学したら、もっと読みたい。となると英語の本を読むしかない。大学で知識へのモチベーションを高められた私は、苦手な英語の本もどんどんと読み進めました。そんな自分の経験からも、学校は江戸時代の寺子屋に戻って、知識への積極的な獲得欲だけ与えるだけ、モチベーションアップに絞るだけで良いのだと考えています。
もう少し言うと、修士論文では「学習理論」をテーマに扱いました。学習理論とは、学習が脳の中でどんなメカニズムによって行われているのか?という仮説を作り上げたのです。いろんな人が様々な仮説を立てていますが、正体は不明なまま。私は、知識へのモチベーションと獲得欲を得られると人は自ずと進んでいく、と考えています。
私が監訳した「やる気を生み出す行動学、子どものモチベーション」という書籍では、モチベーションを巡ってたくさんの仮説を集めています。モチベーションは、日本語に翻訳すれば「学習に対する意欲」という意味です。意欲は、見えないし、触れない、実態が不明なもの。面白いな、知りたいなという気持ちですよね。
*『子どものモティベーション:「やる気」をうみだす行動学』デボラ・Jスティペック 著、佐久間徹 監訳
くすぐりも、自発的に人に近づきたいという気持ちを掻き立てる、モチベーションにダイレクトに関わるものです。つまり、学習環境で大切なのは、人が「楽しそう」に勉強したり、踊ったりしている姿なんだと思いますね。その姿がほかの人を引っ張っていく。モチベーションは伝染するんです。
3、コロナ下で考える戦後の学校教育に残る問題
佐久間(新):いま大学の講義はすべて動画配信かzoomで、オンライン授業が花盛りです。オンラインだから、それぞれのペースで学習を進める、まさに寺子屋的な方法もできるはずなのに、やっぱり一斉授業ですね。これから、オンラインの良いところを出していけるのか、変わらず悪いところに陥るのか……。
徹さん:コロナで学校に行けなくなっていることは、私は悪くないと思っています。いやもっと言うとね、教育とは何かっていう点で、日本の戦後に作られた学校教育の理念に対して言いたいことがあるんです。間違っている!と。
野村:えっ、どういうことですか?
徹さん:日本の戦後の学校教育は、文科省によって作り上げてされました。そこでは、仕組みだけでなく、日本の教育の価値観も作ってきたわけです。日本の文科省の役人はキャリア官僚、つまり東大法学部出身者で固められています。一方で、日本以外の諸外国では、教育システムを作る人材に、哲学的な思考を重視しています。そういったことが教育の価値観に反映されてしまっている、遺憾と言わざるを得ません。
日本の教育の憲法とも言われる「教育基本法」には、2つの目的が挙げられています。1つは、「社会の維持発展させる人材の育成」、2つめは、「一人ひとりの幸福追求の支援」。ただ、前者が圧倒的に尊重されています。
教育の原則に、「人材育成」しかも「社会の維持発展」が組み込まれていることに改めて驚きますが、それは翻って、「我慢してみんなに合わせる」ことを強いる思想にもつながっている……。我慢ができることを子どもの成長として、それを教育の根幹に据えている背景には、子どもを大人がコントロールしやすい存在にするということがあります。そういった教育を受けた子どもが成長して、先生や親、組織や国のいいなりになることが目論まれているのは、火を見るより明らかでしょう。
また、幼い子どもを育てる時は、みなさん育児書を読みますね。そこには、言うことを聞くように躾けないと、親が苦労することになる、という脅迫めいたメッセージさえ隠されています。いずれも、文科省が主体になって作られてきた価値観を反映しています。役人が、学力保証という業務命令を負ってつくりあげたものなのです。
野村:怖いですね……。ところで、一つ聞いてみたいことがあります。心理学の領域では「問題行動」というと、どんなことを意味するでしょうか?
徹さん:学校などの教育現場や、育児、また福祉施設で、問題とされる問題行動、つまり「不適応行動」のことですが、これは、教師や両親などの保護者が、子どもに対して「不適応」と感じる行動を指していますね。あくまでも大人からの視線に基づいているんです。
「不適応行動」を少し丁寧に見ていけば、背景には様々な理由があることが容易にわかります。「問題行動」を行っている子どもの側から見れば、それらの行為は簡単に一つに統括できるものではありません。
例えば、「反抗」。人は成長するに従って、いや、順調に成長すればむしろ「不適応行動」をします。それは、「問題行動」ではなくて、成長に欠かせない行為です。ある年代になった子どもが、大人に甘えるべきではないと取る成長の一過程と心理学的には捉えられる。ほかにも「注意引き行動」。問題を起こすことで大人の注意を引き、したくないことをしなくてよくなるようにすること、などなど、枚挙にいとまがありませんが、「不適応行動」を子どもが取る理由は様々です。
しかし、子どもが「不適応行動」をとることによって、周囲の大人たちは「手こずる」という点は共通しています。我慢することを良しとする教育の場において、手こずらせる子どもは教育が足りないことになってしまう。逆に言えば、「問題行動」には、(本質的に)何も問題もないのです。
このことは、「理解」について信奉しすぎていることが弊害になっていると思うんです。私たちは、問題解決のためには、「理解」が必要と思わされている。「理解」しようとする態度は、人間や子どもの本質を「分かった風」にでっち上げ、お互いの真の理解を妨げることにつながってしまわないでしょうか。「理解」よりも、経験則でどのように判断しコミュニケーションをとるかが大切ですし……。そう、「理解できないこと」が出発点になるべきだって思っているんです。
佐久間(新):理解を前提としないコミュニケーションは、問題行動トリオがしていることと繋がっているように感じますね。
砂連尾:理解できないを前提としたコミュニケーションは、ワクワクしますよね。
佐久間 徹 (さくまとおる) 1935年北海道生まれ。関西学院大学文学部心理学科卒。同大学大学院満期退学。梅花女子大学教授、関西福祉科学大学教授を歴任。訳書に『一事例の実験デザイン』『はじめての応用行動分析』『スキナーの心理学』『タッチ』(いずれも二瓶社)など。
インタビュー構成・編集:里村真理