最近はやらないけれども、若い頃は思いたったら突撃電話をしていた。当時は全く自覚していなかったが、迷惑だったかもしれない。

pou-fouのCDのジャケットが猪熊弦一郎さんの作品だったら素敵だと思い、電話帳だか図書館だか美術家目録だか何かで調べて電話をした。バンドメンバーにもレコード会社にも何の相談もしていなかったが、気持ちが先走った。直接お会いして自分の音楽への思いを語ってみて、猪熊さんの心に訴えてみようと思った。しかし、電話に出たのはご本人ではなく、「先生はハワイのアトリエに出かけておられます。」と予想外の返事。帰るのはCDの発売日よりも後で、ハワイに会いにいく経済力もなかったので、泣く泣く諦めてしまった。でも、ハワイまで会いに行くべきだったなぁ。CDのジャケットは、結局ジョン・ケスラーの音響彫刻が使われた。

「ケージバン」@京大西部講堂(1989年)

pou-fouのレパートリーは全てオリジナル曲だったので、CDに1曲だけカバーを入れるようにレコード会社からリクエストがあった。ぼくは色々考えて、伊福部昭作曲の《ゴジラ》を取り上げた。1954年の映画は戦争の記憶が随所に感じられる反戦映画だと思ったが、1962年の《キングコング対ゴジラ》では、戦争の影は薄れ、スポンサーが権利を主張し合うなど経済成長を風刺するような映画だった。ぼくらは、ゴジラのモチーフと、キングコングのモチーフを重ね合わせた楽曲を録音した。このアレンジを伊福部さんがどう感じたのか聞きたくて、作曲家年鑑か何かで連絡先を調べていきなりご自宅に直接電話をしてしまった。伊福部さんは見ず知らずの若者からの電話に対応してくださったが、そんなCDは届いていないというので、ぼくから直接郵送をした。そして、再度電話をした。ぼくは伊福部さんがぼくらの音楽を聴いてどう感じたのか率直な感想を知りたかった。二度目の電話でも、前と同じようにCDは届いていないと言われた。音楽の未来について、少しでも会話を交わしたかったので、失望した。よく分からない電話をする若者が送ってくるCDを聞く時間などないくらいお忙しかったのだろう。

pou-fouの初期ライブ @DONZOKO HOUSE(京都/1990年)

学生の時、沖縄に旅行した。友人のところに宿泊できたので、2週間ほど滞在したと思う。滞在して何日も経つと、楽器が触りたくなるが、滞在先にピアノはない。どうしたらピアノが弾けるだろう?当時はストリートピアノなどもなかったので、ジャズの店を探して、いきなり電話をかけた。ジャズはできないけれども、ピアノが弾きたいと言ったら、とにかく来てくれと言われ、開店時刻の夕方に店に行った。すると、そこには徳島からサックス奏者の川端稔さんという人も来ていた。彼もフリーインプロの人だそうで、二人ともジャズじゃないのに、同じ日にジャズの店を訪ねてきた。不思議な縁だ。店主は、今日は二人で好きに演奏してくれていい、と言ったので、初対面の川端さんと即興演奏を楽しんだ。常連客も普段と違う音楽を面白がってくれた。そのうち、店主が酔っ払ってきた。ぼくがピアノを弾いていると、「お前、それがジャズか?」と言って絡んでくる。これは戦いだ、ここは彼の店だけど引き下がったらダメだと直感して、ぼくは絡んでくる店主を払いのけて演奏し続けた。店主は酔っ払って軽く殴ってくる。ぼくは負けまいと必死で演奏した。他人の店に来て、彼の美学に反するかもしれない音楽をしているが、やるからには自分なりの音楽を目一杯やろうと葛藤した。そのお店に行ったのは、それが最初で最後。喧嘩したわけではないが、翌日以降に再訪はできなかった。ただ、サックスの川端さんとはその後も交流が続き、京都や大阪や神戸などで何度か共演した。

「シビレル」@ギャラリーそわか(京都/1994年)

昨年、一度も会ったことがない20代のコントラバス奏者から、いきなり長文のメールが送られてきた。メールには、CD制作の計画のことや、編成のことや、予算のことまで、色々と書いてあるが、彼がどんな音楽家なのかは、よく分からない。ぼくが彼の演奏が好きか嫌いか判断する材料すらないのに依頼を受けられるだろうか?でも、ちょっと待てよ。彼の突撃メールは、かつてのぼくの突撃電話のようではないか。ぼくは委嘱を引き受けることにして、新曲《コントラバスのことば》を作曲した。突撃メールに感謝だ。

突撃電話をしていたのは、こちらの人生経験が少なすぎて相手の迷惑を想像できなかった想像力の欠如が大きい。と同時に、新しい音楽を求めて出会いや刺激を渇望していたことも大きい。でも、人見知りで本当は電話は苦手だった。苦手な突撃電話に踏み出した行動力こそ、ぼくの活動の原点にあるので、これからも忖度とか遠慮とかせずに、目一杯実行していきたいと思う。