香港の巨大福祉施設JCRCで副施設長のメーリンから聞いた話。
ティッシュペーパーを散らかし、それを水浸しにしてしまう利用者Aさんがいた。ケア職員は問題行動だと考え、なんとかしてやめさせようと様々な策を試みるが、どうしてもAさんは水浸しにしてしまう。ある日、スタッフの一人がひょっとしてと思い、その水浸しになったティッシュを写真に撮った。そして、カナダの美術展に応募してみた。すると、なんと入選したのだ。次は、日本の美術展に応募したら、また入選した。次は、水浸しのティッシュの形を模した陶芸を作って香港の美術展に応募した。またしても入選した。Aさんの行為は問題行動ではなくなり、アートとみなされることになり、Aさんはティッシュを自由に使える立場となり、心ゆくまで水浸しを楽しめるアーティストと認定されたという。
メーリンは言う。ケアの職員が問題行動だと思って、やめさせようとしている行為を、アーティストは面白がる。福祉の観点だけだと、気づかない利用者たちのこだわりは、アートの観点から見ると、問題行動ではなく表現になる。
「水浸しのティッシュ」は、福祉の世界だけのエピソードではなく、もっともっと大きなテーマだと感じた。これは、ぼくたちが生きている世界全体に通じる象徴的なテーマだ。そもそも、この話を聞くまで、ぼくは「問題行動」という言葉を聞いたことがなかった。福祉の世界の常識での「問題行動」が、別の常識では「アート」になった。こうして、複数の異なる常識が存在するという大前提を認め、複数の常識が共存すること、複数の価値観を認め合い、そこから対話を始めること。それは、世界平和に向けてのシンプルだが難しい課題で、今、世界中でこの課題にぶち当たっているように思う。
あいちトリエンナーレ2019の例を挙げるまでもなく、この複数の価値観を認めず、一方的に「問題行動」として決めつけて弾圧したり、検閲する態度は、21世紀になっても、世界中のあちこちで見られる。「水浸しのティッシュ」では、言葉で多くを語らない重度の知的障害者から真意を汲み取るのは簡単ではなかったと想像できる。しかし、それでも想像力を働かせ、複数の視点から状況を理解しようとした結果、「水浸しのティッシュ」は問題行動のレッテルを取り払われた。だから、弾圧する前に、検閲する前に、十分に調査して欲しい。十分にヒアリングして欲しい。十分に議論して欲しい。
しかし、現実はそうではない。だから、先入観で「問題行動」と決めつけてしまう人々に、ぼくたちの側から説明していきたい。ぼくが共感する多くのアーティストや刺激的な人々の行動が、問題行動に見えることがある。それらの行為は、単なる問題行動ではなく必ず意味がある。必然の行動であるはずだ。問題行動、テロ、ゲリラ、反抗勢力、そんなものは実は存在せず、ただそう見える状況だけがある。「水浸しのティッシュ」を汚いと思う感性を否定する気はないが、その背景を想像できる仕組みを考え、水浸しのティッシュを愛でる感性とどう共存できるかを試行錯誤していかないと、世界から紛争や対立は永遠になくならない、と思っている。だから、ぼくは、「水浸しのティッシュ」のような一見些細な出来事に真剣に向き合うことこそ、世界を変えていくヒントがあると思うのだ。