2019年6月29日、豊中市立文化芸術センター「問題行動ショー」を見にいく。

「問題行動ショー」は、止まることのないめくるめく時間だった。突然に美しいシーンが目の前に現れたかと思えば、また次の魅力的なシーンに移りかわり、様々な人があらわれる・・・というような。3人(野村さん、砂連尾さん、佐久間さん)のやりたいことがいっぱい詰まっていて、さらに突然飛び入りで参加したi-dArtの13人も乱入する二部では、次々と主役が変わっていく。見終わった後は、子どもの時に誰もが持っていた宝物を詰め込んだ宝物箱を久しぶりに開いたような、カオスと懐かしさと甘酸っぱさに身体が満ちていたように思う。

開演前には、エントランスや客席など、舞台からはみ出したところで出演者がウォーミングアップを行っていた。観客の領域へパフォーマーたちが滲み出ていく。私は、開演時間ギリギリに会場に到着したため、すでにホール外や客席でのウォーミングアップは終わってしまっていたが、どことなく余韻が残っているような気がした。そして、いきなり冒頭ステージ上で出演者による記念写真撮影が行われた!え、いきなり問題行動だ。写真撮影って最後に、大団円を迎えたスッキリした顔でやるでしょ?なんか、みんなギラギラしている顔で撮影って!

そのあと、佐久間さんがダラダラした、ニコニコした顔でインドネシア語を話し始める。佐久間さんがインドネシア語話す時の顔って、なんだか嬉しそうだなあと思いながら、ついこちらもニヤニヤしてしまった。ちょっといなし気味の砂連尾さんの通訳。開演前の注意事項がインドネシア語で伝えられる。伝える気あるんかい!とつっこむしかない。ここで、自分たちが「観劇」の定型をなぞるように、ホールに向き合うシートに座っていることをふと思い出す。そうしている自分がちょっと滑稽に感じられてくる。

照明の暗いなか、つかみどころのない音の飛ぶ旋律、たどたどしたフレーズが聞こえてくる。「見えないは、聞こえる」・・・。ぐっと心をつかまれる。一歩一歩、ゆっくりとした足取りで二人が歩いてくる。音と重なるように。一つ一つの音に、個性があるようだ。それもそのはず。たんぽぽの家の人たちが、一音ずつ選んだ音の連なりでできているから。そのことと、砂連尾さんのお父さんのことを書いたエッセイがかぶさる。生きることと、踊ることと、踊ることと、生きることと。舞台の上からすでにパフォーマンスははみ出していく。もう客席にもホールの外の街にも、遠くのまちにいる家族の元にも、「今ここ」がはみ出していく。

と、思うと、急にトークが始まる。野村さんと砂連尾さんがこの舞台の背景を説明すると、背後の暗闇に、カニ歩きの佐久間さんが!!佐久間さんをあからさまに追い出す二人。力一杯抵抗する佐久間さん。どうしてこういったシーンが生まれてきたのか、その背景に興味が湧いてくる。クリエイションの現場をのぞいという気持ちを掻き立てられる。

佐久間さんと野村さんが、子どものように気だるく舞台を動くシーン。ここ、短かったけれど、印象深い。なんというか、ちょっと悪夢みたいな雰囲気もあって。特に野村さんが椅子をひっくり返して足で押す遊び。でも子どもの時、なにか新しい乗り物を操縦するつもりでやった、知っている姿だった(なんで知っているの?って思った人、結構いたんじゃないかなあ、と)。

たんぽぽの家の3人が審査員となって、砂連尾さんと佐久間さんが踊りと楽器演奏で対決するシーン(唐突で、なんじゃそりゃ!とツッコミを入れたくなる)。蚊取り線香、お灸のけむりと踊る姿は美しい。煙よりも煙らしくなろうとする佐久間さん、煙をいつくしむようになぞる砂連尾さん。そのあとは、バイオリンとクラリネットをプロのオーケストラ奏者に教えてもらって、演奏する対決。クラリネットの吉岡さんとバイオリンの岩崎さんは小柄なので、ダンサーの二人は、「だいの大人」感。しかし、またたどたどした振る舞いで、ギャップがなんともかわいらしい。しかし、その雰囲気に触発されたかのように、3人の審査員が、ばっさりと切っていく。その落差がすごい!

佐久間さん、砂連尾さんのデュオ。オーケストラの二人と野村さんのピアノ。音がのりうつったように舞台上を飛び踊る二人。一音一音が違う個性を持った生き物かのように感じさせられている私たちは、二人のダンスが、音の妖精がゆらめいているかのように見えてくる。二人の動きが、波動または、なにか粒が生まれて、揺らいで、こけつまろびつして、絡み合っているように見える。踊りって、ダンスって、見えないものに姿を与えることでもあるのか、とも思う。動きの一つ一つは、どうやって生まれてくるのだろうか。愚問だと思いながら、身体がそこに出現させるみずみずしい動きの一つ一つに目を奪われる。

公演は後半に。香港の巨大な福祉施設JCRCで、絵、踊り、そのほか様々な表現のクラスを開講したり、アートプロジェクトを行なっているi-dArtに所属している13人もの障害を持った人たちが日本にやってきて舞台に上がっている。全員がステージ上にゆるやかな弧を描いて置かれた椅子に座って、出番になったらセンターに出てきてそれぞれ勇姿を見せてくれる。彼ら彼女らは、舞台上でなんとも生き生きとしている。香港から、初めての日本への旅行。さらに、客席からの視線を一身に受ける舞台に上がっている。いつもと違うシチュエーションに緊張したり動揺している様子はあまりみられず、生き生きとしている。その姿にはなんだか勇気付けられる。みんな楽しそうなのだ。他の人が出番の時には、ほぼ、ちゃんと座っているのにも、なんだか感心してしまう。自分以外の人が舞台上で活躍しているのを見るのを楽しんでいるのが伝わってくる。

李くんの手品や、カヤンの駅名リミックス、息をフッ!と吹き出して頭を振り動きまくるダンス、砂連尾さん手品師による佐久間さんの顔芸。不自由な四肢をむしろ生かした低い姿勢のダンスは、たんぽぽの家の人たちと、i-dArtの人たちの共演だった。彼らは2日前のリハーサルで出会ったのが初対面だという。そう感じさせない堂々たる共演、お互いの動きを見ながらともに踊っている姿に、人間の可能性をひしひしと感じる。

香港i-dArtで生まれた「quite quiet quintet」(通称QQQ/2018年)というパフォーマンスに登場した青年・程灃が、砂連尾さんと帽子パフォーマンスを繰り広げた。ちょっと脱線すると、QQQは、もともと香港滞在中の野村さんが、”反応が感じられない、しかし反応している” 彼らのささやかな応答から立ち上げたパフォーマンスで、そこにいた5人がマイペースに「居る」だけに見えるものだ。5人は部屋の中を行ったり来たり、床に寝そべったり、「ハンドベルやうちわだいこを時折鳴らす。音はアクセントになっているが、いつ鳴るのか法則はない。その法則のなさが世界や場を開いていて非常に印象深かった。QQQでは、程灃は、そこにいる人たちと関わりを持っていると明確には見えない反応をしていたのに、「問題行動ショー」のステージでは、あきらかに砂連尾さんの動きについていこうとし、途中、押され気味なところもあったけれど、最後までそこには確かに一対一の応答が濃厚にあってダンスだったのだ。砂連尾さんの、程灃を離さない動きは、なんというか本能的というか動物のようにも見えた。程灃以上に、程灃のようで、程灃の動きを先取りしているかのようでもあった。

最後に登場したのは、ミンキとカヤン。ミンキは全盲で音への感覚が鋭く、カヤンは、鉄道の駅やテレビ番組のタイトルに執着してそれらを音として、または文字として繰り返すことが表現になるような特技を持っている(「駅名リミックス」)。「カエルとヘビの歌」の演奏に、二人が柔らかく動き出す。ミンキの動きをカヤンが真似をして、二人がユニゾンするように動く。カヤンがミンキの手を取ったり、導いたりすることもなく、ただ、隣に立ってミンキの手や体の動きを静かになぞっていく。(後から聞いた話だが、カヤンは自分の世界やこだわりが強い傾向を持っていて、他の人に合わせて自分からダンスをしたことにスタッフは驚いたそうだ。)その姿はなんとも美しかった。人を人として認識している、ごくごく当たり前のことなのだけど、その言葉未満になってできているようで案外できていないかもしれないことが、ここに現前しているかのような。コミュニケーションの原点と言いたくなるような風景だったのだ。そのまま、ステージの上のみんなが少しずつカヤンとミンキの世界に紛れ込んできて、みんなが体を思い思いに動かすラストシーンにつながっていく。舞台上にうごめくどの動き一つとっても、その人そのものであることがたまらなく愛おしい。それは、ダンサーと音楽家、演奏するオーケストラ奏者の二人についてもまったく同様に感じられる、不思議な地平がそこに出現していたのだった。

最後の最後、舞台から降りる直前の小絹がピアノに座り一つ二つ鍵盤を押す。舞台から降りたくないのだろうか。ずっとピアノが気になっていたのだろうか。出演者はみんな舞台袖にはけてしまった後、さいごの小絹のうしろについて退場しようとしていた砂連尾さんだけが気づいて、ピアノの椅子の後ろにそっと立った。小絹がピアノに座っていたのはほんの少しの時間だったけれど、無理に手を出さず、すこし困ったように立っている砂連尾さんに導かれて、客席の私たちも、日常の中の彼ら彼女らに触れたように思った。美しいステージが終わっても、彼ら彼女らは同じように世界にいる。

里村真理

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