今でこそ、砂連尾さん、佐久間さんと「問題行動トリオ」を結成したが、この二人と出会った20代の頃には、彼らと何かするとも思っていなかったし、意気投合するとも思っていなかった。はっきり言って疎遠だったし、自分にはピンとくる存在ではなかった。でも、今は違う。彼らとこそ、一緒に表現を追求したい。

 砂連尾さんと出会ったのは1999年で、その後、砂連尾理+寺田美佐子(通称ジャレミサ)として、コンテンポラリーダンスの世界で活躍をする。トヨタコレオグラフィーアワードの第1回の賞をダブル受賞して、注目のグループではあったが、それでも、ぼくに一緒に何かをやりたいと思わせる強烈な狂気は感じることもなく、自然と距離を置いていた。ところが、2008年ごろから、明らかに砂連尾さんがおかしくなっていった。ジャレミサの活動もやめ、植物と踊ったり、合気道を習い始めたり、お灸の煙と踊ったり、しかも、舞台作品を一向に作ろうとしない。どこへ向かっているのか、よく分からない。コンテンポラリーダンスの枠組みから逸脱を始めたのだ。ダンス業界の人々の多くが、砂連尾さんのダンスが理解できなくなり、距離を取り始めたのに反比例して、ぼくは砂連尾さんと親しくなっていった。彼のダンスは、既存のダンスを解体し、訳の分からない何かに向かっていた。ぼくには、それが面白くて仕方がなかった。

 佐久間さんと出会ったのはもっと古く、1989年。学生時代の彼は、阪大のガムランサークルに所属していて、現代音楽のイベントなどの客席で度々顔を合わせたが、あまりゆっくり話したことはなかった。そして、1996年にぼくがガムラン作品「踊れ!ベートーヴェン」を作曲した時、インドネシアに留学している佐久間さんと再会した。佐久間さんは27歳で留学して、ジャワ舞踊を学ぶ。その頃の佐久間さんの体の硬かったこと!毎日ストレッチをしていたが、こんな硬い体でこの年齢からダンスを始めるなんて、無謀なのでは、と思った。2000年に帰国した時は、5年間の留学で学んだ伝統舞踊を日本に伝えるという重責を背負ったジャワ原理主義者の佐久間さんだった。今のように即興で踊ったり、作品創作したりするなど、とんでもない。彼にとっては、ジャワ古典舞踊が全てであるように見えた。その後、彼が所属していたガムラングループが、たんぽぽの家の障害のある人とのコラボレーションを始めた時、佐久間さんは苦悩しながら、障害のある人々とダンスを模索した。そして、驚くことに、それまで借り物のように見えていた彼のジャワ舞踊が、この経験を通して、彼の体にフィットしていった。即興をしようと、歩いていようと、何をしてもジャワ舞踊になる。佐久間さんのジャワ舞踊は、意外な形で熟成された。そして、ガムラン音楽やジャワ舞踊関係者の多くが、佐久間さんと距離をとって佐久間さんが孤立化していく中、ぼくは佐久間さんへの興味が強まっていった。

 ちょうど10年前、2010年に、佐久間さんと話していたら、砂連尾さんとそっくりな話が出た。コンテンポラリーダンスとジャワ舞踊。全く違う分野でほとんど接点なく過ごしてきた二人。それぞれの道を極めて、それぞれの業界から逸脱する活動を始めた結果たどり着いた境地が、実は似ている。二人が出会ったら面白いのでは、と紹介した。最初、お互いを牽制していた二人は、あっという間に意気投合し、太古の昔からの兄弟のように通じ合った。

 「問題行動トリオ」の3人は、かつて交わらない3人だった。全く親しくなかった。でも、40代になって以降に急接近した。そして、急接近して以降、ますます芸に磨きがかかり、独特な発想や感覚に拍車がかかっている。お互いの存在が、ますます拍車をかける。だから、このおかしなおっさんたちと、ぼくは徹底的にやりたい放題やりたい。抑制なんてせずに、納得いることをやりたい。そのために「問題行動トリオ」をやるのだ。このグループが興行的に成功するかとか、そんなことはどうでもいい。でも、ぼくたちの訴える不可解なような「問題行動」の真意を、いろいろな形で伝えていきたい。共有していきたい。

 それが、問題行動トリオ。