中学校時代の話。ぼくは中2後期と中3前期の2期連続で美化委員長を務めた。美化委員の主な仕事は、校内の清掃と思われていたが、ぼくは、美化委員を「美」全般を扱う委員会として、放送委員、文化委員、図書委員などと連携し、校内美化の概念を抜本的に変える構想を考えた。そんな中、美化委員会で考え出したプランは、様々なデザインのユニークなゴミ箱を創作し、学校中に設置(=展示)するという「ゴミ箱のアイディアコンクール」だった。コンクールは、実際にゴミをたくさん集める機能だけで評価するのではなく、ゴミを入れたくなるビジュアル、無味乾燥な学校の風景を遊びに満ち溢れた空間にする奇抜さなど、多角的に評価していこうというものだった。校内美化とは単に掃除をすることで達成されるのではなく、美に関する観点を根底から変えなければならない、という主張が委員会で話し合われた内容だった。ところが、委員会のアイディアを、顧問の教師は否定した。「ゴミ箱を作るのにゴミが出て、校内のゴミが増える」というのだ。生徒が民主的に話し合って、議論をして出てきたアイディアを、一人の教師が独断で否定して封じ込める。食い下がって反論しても、頭ごなしにノーと跳ね除けられた。対等な議論さえさせてもらえず、悔しかった。生徒会というのは、教師の言いなりになる組織であってはいけない。ぼくは、教師の都合ではない生徒会を作りたいと思った。

 そこで、まず始めたのが、全校生徒に配布する機関紙。委員長の特権で学校の印刷が使えたので、風紀委員長と二人で『週間プログレス』と『月間プログレス』の二つを創刊した。今思うと、手書きでろくにデザインもされていない新聞など、中学生たちに見向きもされなかったかもしれないが、こちらは校内革命を起こすためにはこれしかないと思って、せっせと書いていた。

 次に構想したのが、美化委員長による全校生徒との面接。当時の城山中学校の全校生徒数は約1800人。生徒議会は、各クラスの総務委員2名が出席し、合計80名ほどが出席する間接民主制だったが、これでは本当に個々人の意見が反映されているとは思えず、美化委員長として、1日20人ずつ面接していけば4ヶ月ほどで全校生徒全員と話ができると考え、本気でこれを実現しようと、生徒会執行部、生徒議会、美化委員会などで検討したが、こんな無謀なプランは実現せず。

 何十年と変わっていない生徒会会則の改正を目論む生徒会長とは、徐々に意見が違い対立するようになった。生徒会長は古典落語をこよなく愛す落研の部長でショパンを弾くピアニストであり、ぼくが2期連続美化委員長を務めた間に、2期連続で生徒会長を務めたライバルとも言うべき友人だった。2期連続で生徒会長というのは、異例中の異例のことだった。会長は、生徒会会則を改正するための全校投票の実現に熱意を燃やしていた。ぼくたちは、憲法改正の国民投票をやるくらいの意気込みで、生徒会会則を検討した。しかし、最終的な改正案は、いくつかの委員会を係に降格させる、というものだった。ぼくはこれは改悪だと訴えた。委員会は全校の機関で、係は各クラスの仕事をこなすだけ。全校で集まって話し合う場があるか、無いかという違いがある。落研生徒会長の案が通れば、いずれ美化委員も美化係になってしまいかねない。生徒一人一人の声が届かなくなる。

ぼくは、登校時に一人校門に立ち、全校生徒に向けてスピーチを続けた。ぼくの校門でのパフォーマンスにどれほどの効力があったのか分からないが、全校投票では生徒会長案に必要な得票数に達せず、ぼくの主張が通った。

 生徒会役員選挙の所信表明演説会の際には、立候補者の推薦人として舞台に上がった。通常は、立候補者の演説の前に推薦人の短い推薦のコメントがあるのだが、ぼくは候補者の演説の後に登場し、推薦理由を延々とスピーチした。選挙管理委員長がぼくを止めようとするが、ぼくはやめない。ベルを鳴らして妨害されるがやめない。最後には、ステージの緞帳がおりてきた。何の話をしたか全く覚えていないが、それでも、緞帳が下されるまでスピーチを続けたことは、ぼくの中学生活の大切なパフォーマンスの一つだった。

 夜の7時や8時まで生徒会室で議論してから下校することが何度もあったけれども、学校は全く変わらなかった。ぼくは本気で学校を変えたかった。(教師から排除される)ツッパリたち不良たちの価値観を取り入れるような学校を本気でつくりたかった。問題行動の学校を作りたかった。教師がつくる校則を生徒の力で改正したかった。学校の先生たちと対等に議論したかった。でも、できなかった。悔しかった。民主主義を夢想し、スピーチや演説の真似事をいっぱいして、全校生徒に笑いネタを提供する以上のことはできなかった。